『ショーペンハウアー、君はそう言うけど』でサブカル!

ドイツの哲学者にアルトゥル・ショーペンハウアーという人がいる。

 

 

この人は読書を行うことについてこう述べている。

 

『読書は他人にものを考えてもらうことである。

本を読む我々は、他人の考えた過程を反復的にたどるにすぎない。

習字の練習をする生徒が、先生の鉛筆書きの線をペンでたどるようなものである。

だから読書の際には、ものを考える苦労はほとんどない。

読書にいそしむかぎり、実は我々の頭は、
他人の思想の運動場にすぎない。』

 

 

 

 

 

 

 

これについて、「ああ確かにな。その通りやわ!」と思ってしまうとそれはまさに、

 

 

 

ショーペンハウアーの思う壺なのだ。

 

 

 

つまり、ショーペンハウアーが述べていることをそのまま賛同することも『読書は他人にものを考えてもらうこと』に一致してしまうわけだ。

 

 

 

 

じゃあどうすればいいんだろうか。ショーペンハウアーの言っていることのみ、鵜呑みにしていいのだろうか。

 

 

 

 

これは哲学的矛盾を読者に与える、ショーペンハウアーの名言なのだ。

 

 

 

ショーペンハウアーから一回離れてみよう。

 

 

 

 

僕たちが生きているこの時代よりも前の時代、大昔から哲学者は存在する。

 

 

彼らは『これはこういうことである』という答えを世に訴えてきた。

 

 

 

現代では哲学者に限らず、様々な業界の著名人、はたまたネットのお陰で僕のような凡人でさえ『これはこういうことである』という答えを訴えることが出来る。

 

 

 

 

著名人は本を出して、僕たちはそれをありがたく読んでみるのだが、そこに書かれていることは何故か莫大な説得力をもたらしてはいないだろうか。

 

 

 

何故ならそれは彼らが何かしらの結果を出しているからである。

 

 

結果を出しているものが言う言葉には説得力がある。

 

 

しかし、またショーペンハウアーに戻るけど彼の言うように著名人が言ってることも正しいというわけではない。

 

 

 

あそこに書かれているのは著名人が紡ぎ出した結論に過ぎないわけであり、自分にとって最適とは限らないのだ。

 

 

 

それを知らないと、自己啓発書やビジネス書を読み漁り一々納得するだけのショーペンハウアーが言うならば『本を読む我々は、他人の考えた過程を反復的にたどるにすぎない』ということに一致してしまう。

 

 

 

 

つまり、一切本なんて読まない方が『自分の基準で物事を考えられる』ということになるのかもしれない。

 

 

 

けれど、世の中には自分の頭で考えるには難しいことばかりである。故に本を読むのは自然な行為なのだ。本に限らずネットで情報を得るのも同じだ。

 

 

 

一番大切なことは、『妄信』しないことである。

 

 

 

僕はショーペンハウアーの言うことはあくまで参考に留めておいて、今後も多読に走り著者の考えに揺さぶられ続けるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

しかし、最後は自分でちゃんと考えることを意識したい。

 

 

 

 

 

 

 

しかし、こうやって自分で考えようと意識することは、もしかしたら前に読んだ何かの本の影響を受けている可能性がある。

 

 

 

 

だとしたら、これも

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ショーペンハウアーの思う壺じゃねえか